それぞれの地で同じワインを飲み、3月12日を迎えられたということ。
19年前のあの日も、3年前の昨日も僕は地震にほんの少しだけ影響を受けた。
揺れたその場にいたけど、その場はその場ではなかった。
被災者じゃないのに同じ場所で生まれた揺れの中にいた。
共有しているはずだけど、何一つ共有できていない気もする。
19年前は大学の期末テストの初日だった。試験勉強もせず映画を見て、終わりかけの時間にあの地震はやってきた。いつも「震度1」ばかりの奈良では、それまでに感じたことのない揺れだった。けれど、それ以上のことはなかった。
うたた寝していたら姉に「阪神高速が落ちている」と言われ、何を言うてるのか、寝ぼけた頭では意味がわからないまま、頭の中に法円坂あたりが落ちている画が浮かんだ。やがて神戸方面の友人と連絡がつかないことがわかった。暫くして訪れた本籍地の灘区界隈は見たことのない街に変わっていた。よく遊びに行った三宮や元町はあの日以来、本当の意味での復興なんてしていないと時々感じている。
華やかで曇り一つなかった神戸の街に影が差した気がした。
3年前のあの日は仕事の打ち合わせで蒲田の近くにある会社のプレハブ棟にいた。このまま倒れてしまうのではないかと焦るような揺れだった。外に出てワンセグ放送から流れる映像は40年ほど生きてきた中で見たことのないものだった。
そのとき見た、あの津波が押し寄せはじめたタイミングでは、まだ多くの人が生きていたはずだ。
当たり前かもしれないが、何も出来ない傍観者という自分がいた。
打ち合わせは中断し、娘のことだけが気掛かりだった。被災地のことを思うようになるまで、かなり時間がかかったような気がする。
まだ年少だった娘の通う幼稚園への電話は通じない。
大阪の姉たちからも、兵庫の妻の実家からも、その日アメリカにいた妻からも、ひっきりなしに電話が続いた。大阪からなら逆に通じるかと思い、姉に幼稚園にかけてもらったら通じ、無事が確認できた。
打ち合わせ先を出て駅に向かうと電車は止まっていて、復旧の見込みは不明。国道1号線まで出てタクシーを探すもすべて回送。唯一バスが走っていて、扉まですし詰め状態だったが、何台か過ごしたあとで何とか乗れた。16時半くらいのことだったか。五反田に着き、家まで歩いてクルマに乗った。
娘の幼稚園まで15分もあれば行けるが、その日は30分以上かかり、着いたらお預かり時間いっぱいの18時ちょうどくらいだった。
無邪気な4歳児は怖くなかったと言ったが、他の親は皆迎えにきて、最後の一人だった。心細くなかったはずはないだろう。その頃からだろうか、彼女は大人の顔色をうかがうようになった気がする。気のせいかもしれないが…。帰り道は激しい渋滞で、歩いてでも帰れる道を1時間かけて帰った。
翌日の夕方、妻が帰国した。原発がどうなるかわからない状況の中、彼女たちに関西に戻るよう伝えた。羽田へ至る、いつも混み合う第一京浜がガラガラで、真っ暗だった。あの異様な光景は忘れられない。一人運転する帰路、何かあったら、もう会えないんだろうなと思ったが、冷静でもあった。
被災していない人たちの経験は、程度の差こそあれ、このようなものではないだろうか?
あの後、僕らはいつの間にか便利な生活に戻ってしまった。
あの時、みんながやった節電はどこへ行ったのか?他者を思いやる心はどうなったのだろう?
こういう時だからこそ、外でお金を使おう、外食しようと考えた、あのムーブメントはあれからどうなったのだろう?
人は忘れていく生き物らしいが、日本人は本当に忘れやすいのだろうか。電源供給が無くなると記憶が消えてしまうDRAMのように、常に忘れないための動作が必要なんだろう。
あの時僕らは、同じ空の下にいて、地続きの大地の上にいた。だけど、現在進行形で被災が続いている人々もいれば、遠い過去の記憶になりそうになってしまっている人もいる。
思い出す日は3.11でいいし、1.17でいい。けれど僕らは3.12を1.18を迎えることが出来なかった人たちを思いたい。そして、19年前の1.17から、3年前の3.11から続く被災の現実を心に留めておくべきなのではないだろうか?
あの日が終わりだった人、終わりの始まりだった人、始まりの始まりだった人…いろんな人の人生をも揺さぶった震災は今もまだ続いているように感じている。
同じ空の下、皆と同じワインが飲めて、そして今日を迎えることができて、本当にありがとう。
キュベ東北。
このワインを味わうことが出来たのは、インポーターのヴァンクゥールのみなさん、それぞれのお店のみなさん、そしてThierryとBonhommeのおかげ。
世の中はいろんな「おかげ」で出来ている。